働くスタンスを変えることは、違う神を信じることに似てないか

私はこれまでの人生での大半において、
生きるために働くということはすなわち
「雇い主(扶養者つまり親とか元夫とかを含める)」の望む「結果」を
なるべく早く出しつづけて評価を受ける、ということだと
学習しながら生きてきた。
それは、コツを掴めば難しすぎることではなかった。だから今生きている。
ただ、「そのようにして生きて幸福か」と自問すれば、
しばらくの沈黙のあとに、違うと思う、と答えるのが正直なところ。


それが、最近は新しい展開が自分に起きつつある。
今私の働いている場所では、これまでと勝手が違っていて、
クリエイティブに発案して問題解決をすることを望まれている。
評価基準も、結果も、外に既にあるものではないのだ。
まだどこにもないもの。
でも、なにか案やもっと具体的なモノやコトを作って
周囲を納得させ、もっといえばお金を出させることに成功すれば、
評価基準はそのとき、その創出物と同時に生まれたことになる。


これは私にとってはほんとに耳新しい価値観、スタンスだ。
考えてみれば、これこそが「けものみち」じゃないか。
そして、「これまでけものみちを歩いてきた」と思ってた私は、
じつはそんなかっこいいものじゃなくて、
既得権利で生きてくチームの下層でうまいこと使われてきただけなんじゃないの?
「これまで、既存の価値体系の中で、さほど評価されてこなかった」ことと、
「評価基準が存在しなくて、そのレベルから自分で作っていくことが期待されるから、
 なにかを作っている途中の今はまだ評価されてない」ことは、
ぜんぜん違う。


そして、やばいことには、
既得権利チームの全体のパイは小さくなりつつある。
最下層から切り捨てられたり、使いつぶされたりするのは、目に見えてる。
このままいけば私は、切り捨てられたり、使いつぶされたり、するわけだ。
どうするの私。


だけど今、自分にはチャンスがある、とも思っている。
わたしの今の職場は、職場全体がけものみちを本気で目指している、からだ。
なぜそんなところに、この私がいるのかといえば、
雇用主のいうには
私には新しい働き方に進むことのできる可能性があるし、
それに対応する柔軟性や学習意欲を、
この年齢になるまで、珍しく保っているのが見て取れるから採用した、とのことだ。


私には、既存の(上から示された)価値基準、ゴールに向かって、
早く結果を出して、その分だけの報酬を受ける ということを
長い時間かけて、飴と鞭でしこまれてきた自覚がある。
つまり既得権利チームの「使いやすい下層構成員」となるべし、と、
丁寧に作りこまれた自覚がある。
そして、そういう個体としての出来は、まあまあいい線いけてたと思う。
だからそうして暮らす感覚はよく知っているし怖くない。裕福じゃないけど。
で、「既得権利チームから外れる行動をする」場合には、
「その世界での報酬が得られない」ことが経験的にわかっている。
既得権利チームの神は、私にこう言うのだ。
「クリエイティブに生きるのを選ぶなら、勝手になさい、
どこから稼ぐか知らないけどね。
その目新しい、わたしの理解できない価値に向かってあなたの時間を使うなら、
その時間分わたしのために作業してくれたときのような報酬は、
もうあげられない。
ここにいれば、死なない程度に食事も住む場所もあげたのにね」
ただし、その神の後ろに見えてる、かつて後光を放っていた
財宝は目減りしつつある、って感じ。


そして、リアルな雇用主や職場において
信じられている、別の神はこう言うのだ。
「評価基準も結果の価値も自分で創っていくものでしょう。
報酬は私は決めないし私があなたにあげるものでもない。
いいものを作ったらあなたやあなたのチームが相応に直接に手に入れるだけ。
やるかやらないかはあなた次第。なにをつくるかも自分で決めてね。
それがイヤで、いろいろ決めてもらいたかったり、
古いスタンスでいたいなら、そうしていてもいいんじゃないの」
そして、その信徒たちの中には首尾よく大富豪になるやつもいれば、
いいものを作れなかったり、ひとに認めさせることができなかったりして
貧しくなっていくやつもいる。


私が不思議に思うのは、クリエイティブの神の信徒の中に
野たれ死にを恐れないひとたちがいることだ。
明日の、来年ぶんの貯金がなくなるかもしれないのに、なぜ平気なの。
子どももいたりするのに。
彼らは言う。
「アイデアを出すために考えている過程が楽しい。
いい案に近づいているときは、自分でわかる。
いま自分が解きたい問題の正解はいくつもあって、
その解の全部を知っているのはたぶんクリエイティブの神だけだろうけど、
そのひとつに自分がたどりつくことを目指している」
そして実際、楽しそうだ。まだ結果を出せてなくても。


私は疑問でいっぱいになる。
どうして楽しいの?結果も出せてないのに。
どうして考えてなんていられるの?その間に時給仕事してたらお金になるのに。
誰が生活や報酬の保証をしてくれるの?
書いてみるとわかる。
私はいまだに、既得権利チームの下層構成員の頭の構造をしているのだ。
そして、クリエイティブのひとたちは、私のそんな疑問を聞くと
目を丸くして、
「その変わった考え方はなに?
 誰が生活の保証してくれてると思い込んでるの?そんなの、最初からありえなくない?
 その幻想持ってるから、過程を楽しめないんじゃない?」
と無邪気に問い返してくるのだ。
そして、そんな彼らにお金を払う人がいる。
彼らはじっさい、私が恐れているように野たれ死んだりしてないのだ。
楽しそうなのだ。


私は、そっちに行きたい、クリエイティブなスタンスを獲得したい。
そう思ってるくせに、今の自分は、ベタベタの既得権利下層構成員の頭だ。
ある神の統治する世界からほかの神の統治下に、宗旨替えをたくらんでいながら
依然として古い価値に自分を縛りつけている、わけだ。
自分の中にすごい抵抗感がある、自覚がある。
怖いしめんどくさいしもうたいへんだ。
だけど、やってやる。


スタンスを変える必要のないひとにはこの感じは理解できないだろう。
たとえば既得権利側で、
下層だけど蓄えがあるから一生いけちゃう人とか、見ないことにしてる人とか、
上層だからまだまだ稼げるのがわかってる人とか、
それから、最初からクリエイティブサイドで、自覚的にリスクを取ることを
時間をかけて丁寧に学べる環境で育ち、
自然にクリエイティブにふるまえている人とか。
それらのどの人よりも大変だってことを、私は自覚している。
さらに言えば、先に学んでしまった既得権利サイド下層構成員のスタンスが、
新しい価値を学んだり選んだりすることに大きくブレーキをかける作用を
持つ性質のものであることも、自覚してる。
宗旨替えしようとしてることが自分自身にかけている負担、恐怖を、
過小評価しないほうがいいと思う。
私は怖いと思ってるし、わけがわからないことも多いし、
ネイティブのクリエイターから見れば、
私って変な考え方にとらわれてる奇妙なかわいそうな人かも、と思ってしまうこともある。
そして、そんなことを考えること自体やっぱり奇妙よ、とか
メタに自分を責めてしまう日もある。
ほんときつい。
それでも、私は変わりたい。
もっといえば、そのうえで可能なことなら「一発当てたい」。


いま私にとって有利なことは、いろいろある。
ネイティブのクリエイター感覚の人と間近で仕事できる環境にあること。
それから、宗旨替えに挑戦している、私と同じように「たいへんな状況」の人を
知らないわけじゃないこと。
それから、ブログに書けること。
小さな宗旨替えならいくつもしてきたし。
今度のは大きいけれど、やるべきだし、やれると思う。
私はこの過程を楽しめるだろうか?
やってみればわかるわね。
いまのところ、楽しくないです。苦しい。
でも泥の中で少しずつ進みたい方向へ動いている感触を持っていて、
そのうちもう少し見晴らしがよくなるのだろうとも感じています。
つづく。