恨みがましさと怒りについて

ちょっと日が飛んでしまった。いろいろなタイミングでいろいろ考えていたことはあった。
どの時期にどんなことがあったか、過去日付を埋めながら書いていこうかと思ってる…。


フューチャリスト宣言」を読んだのが、この時期(6月20日ごろ)。
読んでいて、そうだそうだ、と思ったのが、
日本の「けものみち」在住者とシリコンバレー精神との違いで
日本には「恨みがましさ(ルサンチマン)」がある、というくだり。

弱者、少数派、という立場のひとについて、たとえそのひとが
自分の心に従った行動をとっている自信や自覚があっても、
どこか暗く、恨みがましいニュアンスを感じて「引く」ことがけっこうあった。

私自身だって弱者、少数派だけど。
恨みがましくしたくない、という意地のような、というか
そうしたら手に入るはずだった機会も去っていきそうな気がして、
弱音は吐いても、世の中に怒りをもったとしても、
恨みごとを吐くのは違うだろうと思って過ごしてきた。

怒りはエネルギーになるから、持ちようによってはいいと思ってる。
上記の本にもあったとおり。
私はこの本を読んで、その場かぎりの怒りではない種類の怒りについて
自分がずっと持っているもの(家族制度について、性別の扱いについて)を
肯定的にとらえることができた。
たぶんこの怒りは、私のライフワークを支えてくれるものだ。
もちろん、表出する形は怒りそのままにはしないつもりだ。


さてそれで、恨み言について。
これまで出合ってきた人のなかに、
わりと抵抗なく恨み言を吐いてそれで現状を変える行動はしないひとって多くて、
いつも、その選択について疑問を持ってた。
そこに上記の言葉があって、名前がついたことで一部整頓がついた気がした。


で、また数日して、そのことを人に話してみた。
そのとき、いろいろやりとりがあって、
シリコンバレーと日本の違いは、
日本人が甘えてるとかそういうことが主たる原因ではなくて、
問題はチャンスの量の違いなのじゃないかって思った。
シリコンバレーは競争も厳しいが、
ベンチャーに投資し、失敗しても見守る土壌は、日本と比べ物にならないそうだ。
強い心だけがあっても、きっとだめなんだ。勝算がなければ。
日本でがんばって、勝算を立てられるまでになるには、
投資家も投資金額や制度もメンターも技術交流も、日本には少なすぎるのかもしれない。
(じつはこの状態は、日本で子連れの独身女が自力で暮らしを立てていくことにも似ている)


現実が厳しいとしたら、恨みがましくしている人の理由は、納得できる。
でも、納得できるからって、そうするのがいいとは全然思わない。
水戸黄門の歌みたいに、くじけりゃ誰かが先を行く、だろう。より有利な誰かが。
努力やら根性やらのことを言うつもりはぜんぜんない。
泣いたり苦労したと思い込めるようななにかを続けたりしても意味はない。
不合理なことには怒りをもって、それをモチベーションにしてもいいし、
状況を見て戦略的に、苦労しすぎないで効率を上げる方法を考えて余裕を持ってもいいし、
でも、とにかく
自分の頭で考えてベストの方法を自分で選んで、いまできることをすることでしか
状況は変わっていかない。
ベストの方法は、ぜったいに、恨み言を吐くことではないはずだ。