自分の責任で考えるということ

「自分の責任で考える」ということについて、
じつは私は成人してもまだわかっていなかった。(ごく幼い頃にはわかっていたのかもしれない)
成人の倍くらいの時間が経ってはじめて、
それが地に足のついた感覚を得るための、おそらくたったひとつの方法だろうと感覚でわかった。


困ったことに、
考えないことが歓迎される場 というのが、世の中にはわりと存在する。
考えない人をコントロールするのは
考える人をコントロールするより、はるかに簡単なので、
その場を動かす責任を持つ人が楽をしたい、問題に直面したくない、
(さらには、自分の立場を保持して享受しつづけたい)と考える場合、
その場の自分以外のメンバーに対して考えないことを奨励し、
ときには考える人を攻めたり排除したりしようとすることがある。


そのような場に、他の選択肢を持たずに入った人は、考える行為を放棄することを
生きる手段として学ばざるを得ない。
そのような卑劣な圧力があったことを自覚できるならまだしも、
無自覚に、考えないことで生きていくよう習慣化した場合には最悪だ。
自分の手で「考える」習慣をあとから取り戻すことさえ難しくなる。
考えはじめようとしたときに本人の中で危険信号が鳴り、
その仕事はあなたの担当ではない、
考えるならばあなたは自分の居場所を失うおそれがある、と
記憶が訴えてくるから。


自分で納得がいくまで考えて行動する、という、
自然に考えれば、大人であれば誰もが責任感を持ってやるべきことについて、
多くの人々が放棄しているように見えるのは、
そういう人たちがもともといい加減なのでもなにか足りないのでもなくて、
育つ過程のどこかで体にしみこむまで、考えるなというメッセージを
受け取っているからではないかと、私はときどき思うのだ。


なんだかこう書くとおおげさだけれど、
ろくでもない教師のいる教室やろくでもない親のいる家庭やろくでもない上司のいる会社で、
考えないことを歓迎する場はごくカジュアルに作られているはずだ。


たとえば友人と話していて、困った同僚の話を聞いたのだけれど。
その人はきちんと教育も受けているし、挨拶や敬語使いなども普通にできる。
依頼された作業はきちんとやる。
でも、担当の仕事について自分で判断することがまったくというほど無いのだそうだ。
本人が担当し、本人だけがすべてを把握してやりとりしている件についてでも、
判断を他人に依頼する。
そして、自然に考えたらAという対処になるでしょうからそれでお願いというと
腑に落ちない様子。しかし依頼についてはきちんと処理をする。
でも、その後同様な事柄があっても決して自分では決めないし、
逆に自分で決めてというと困惑と屈辱感を混ぜたような顔をして、
さらに「自分で考えて」と言って待っていると、意外なほど不適切な判断をする。
いつまでたっても、もう2年ほど一緒に働いていても、ずっと変わらないそうだ。
どのようにサポートしていいかわからないと友人は言う。


たぶんだけど、どちらの気持ちも私にはわかる。
考えることについて阻止されずに育った人にとっては、
考えないでいることによって生きてこられた(つまり考えたら排除される)と信じている人の
行動は謎だし迷惑だ。
考えないよう教育されてきた人にとっては、
日常的に考える人からの「ふつーに考えてみてよ」という要望は、自分の生活の安全をゆるがす、
(そのくせその後の保障などしてくれなそうな)恐ろしい提案に見えるのだ。


で、どうすればいい?


私はこう思う。
考えないようにして生きてきた人は、訓練で生活のために考えを放棄してはきたけれど
息苦しさを感じているはずだ。
「考えて」と言われたときの恐怖や困惑と屈辱感は、
今まで考えないでやってきたこととの辻褄は誰が取ってくれるのか、
誰もとらないじゃないか!という怒りが形を変えたものではないだろうか。
その感情といったん向き合い、そして、すべて保留して、
とにかく考えてしまうのだ。


どうなる?
何も起きない。
かつて教え込まれたように、攻められたり排除されたりすることがなく、
自分の中にあった、眠らせていた論理性が満足する快感を覚え、
そして、よい選択ができて自分も周囲も利益を得る。
いまいる場所がろくでもない人の権力化にあるのでなければ、そうなる。


そのことを一度体感してしまえば、事態は動きだす。
それは簡単なことではない、が、単純なことだ。
あらゆる感情をいったん棚上げして、考えはじめてしまうこと。
それによって、なにかを捨てなければならない結論にたどりつくかもしれない。
それなら、捨てたらいいのではないか。
簡単に捨てられないなら、保留にすることを「自分の責任で考えて」選んだっていいのだ。
考え始めれば、そういうことが次々にわかってくる。
なぜそう書くかといえば、私がそうやって考えることを取り戻したからだ。


再び考えはじめるのは本人にしかできない。
周囲は、ここはろくでもない場所なんかじゃないと示して待つくらいしか
きっとできることはないのではないか。
そうして考えてみると、本人もつらいけれど、周囲もつらい。


人をひとり、考えることを放棄させるまでに使うコストはどのくらいだろう。
時期や方法を選べば、かなり低コストでできるんじゃないか。数人月くらいとか。
それによって社会が蒙る損害はどれくらいだろう。
本人のパワーにもよるが、数十年、責任を取る仕事(暮らしも)ができないこともありえる。
その周囲の人がサポートに費やすコストもばかにならない。
それで誰がどれくらい得をする?
ろくでもない人間がひとりか数人、よい気分でいるだけだ。
(本質的に豊かにはならないだろう、使えない人材を手元に置くわけだから)


こういう構造が存在し得ることを誰もが認識して、
自分は他人に考えを放棄させるような行動を一切しないし、
誰かが自分にそのように接してきたらそれは人類にとって無駄なことで従うべきでないと、
ひとりひとりが意識するならば、
世の中の生産性はずっと上がるだろう…
と、わたしは本気で考えている。