うそおっしゃい

このところ仕事やプライベートでいろいろな人に会ったり、
これまで読んだ種類のない本を読んだりして、
あらためて思い当たったことがある。

平等という幻想が、いかに有害かということ。

男女が平等であるとか。
生まれ(家系、個体差など)に起因する社会的な違いなどないとか。
すべての人に、望む方向に成長する機会が平等だとか。


うそおっしゃい。


体に恵まれなければスポーツでは不利だ。
実家の経済的余裕に恵まれなければ芸術系は不利だ。
人脈に恵まれなければビジネスでは不利だ。
社会的・対面的スキルや各種のリテラシーを獲得できない状況で育ったら、
他者とやりとりするすべての分野において致命的に不利だ。
やりたいことに対して不利な点があるなら、
認識して自力で対処していくしかないのだ。
平等なはずだと目をつぶっていたら永遠に差を埋めることができないだろう。
また、自分より遅れてやってきた誰かに対して
適切な手助けをしようとしたとき、その人の背景、それによる格差を
理解も想像もできなかったとしたら、
はたして適切な選択ができるだろうか。


義務教育までは、ものすごくいろいろおまけして仮に平等であるとしても
その先に出ていく世界でのスタートラインは既に、
いろいろなモノサシで角度は違うけれど、
互いの姿が見えないほど遠く離れている存在があるのが、ほんとうのところだろう。

努力しても進みの遅い自分の状況があったとして、
スタートラインの違うライバルとの格差を
平等なはずという思い込みから直視できなかったとしたら、
どれほど時間を無駄にし、自分の力を疑ってしてしまうことだろう。


素敵だなあと思ういろいろな人の話を見聞きすると、
人生のどこかでコストをかけて、その幻想に見切りをつけて
自分の判断で歩き始めるときがあるように見える。


そこに至るまでの道のりで自信を失い、人生の時間を浪費した人の数だって
少なくはないだろう。
また、苦しむ人を支援しようとしながら格差を直視しなかったために
適切な対処がとれず、無駄になったコストも少なくはないだろう。
そう想像すると、
日本人は平等であるという幻想の罪は重いのではないかと今思っている。
その幻想が流布したのは、なぜだったんだろう。
それで誰が得をしたんだろう。


せめて私は今からでも、自分の不利なポイントを直視しておこうと思う。
そして子どもにも、あるがままの社会について考えて把握していくことを
勧めていき、私にいま見えているところまでは見せる協力をするつもりだ。
格差社会が「やってくる」のではなく、今ここにある格差で
私はすでに多くの面で不利を蒙っている。
それが今後もっと広がりそうだということなのだろう。
それでも、私が掴めるチャンスもいくつもある。
チャンスを掴んで、格差を越えていくような行動を自分が選ぶためには
格差があるという認識があることが前提で、
そこまではたどり着いたというところなんじゃないかなあ。


思えば長いこと幻想に苦しんできたなあ。15年くらいか。もっとかも。
見えない理由を探して自分を疑ったりもして苦しんでいたその期間を、
現実に直面して腰をすえて対策を練り行動することができたとしたら、
どれほど私は変わっていただろう。
でも、これからできることを考えていく。
自分自身のことと、子どもとか子ども世代のこととか。