状況を把握することは自信につながる

あとから書いた日記。
この時期に私は、仕事上の知識をさらい直す時間を得てそれを享受した。


私が理解していてしかるべき技術的な情報には3つほどのレイヤーがあったが、
これまで、私はそれがいくつのレイヤーに分かれているか把握しないままだった。
今回の自習で理解できた内容は、過去に作業効率を上げるのに必須の知識だったので、
当然ながら、その分野で私は過去に結果を出せずに苦しんでいた。


そうなった理由は人災とでも言っておこう。いま言いたいのは理由のことじゃない。

技術情報を把握しなおした結果、これまで混沌として見えた状況が整頓され、
問題解決に使える知識となって身についた。
いくつかのポイントを把握しないことには、その技術を理解することは難しくて、
平たくいえば「いくらぼーっと見てたってわかるわけない」のだった。
そして、そのポイントは書籍にも適切な形で載っているわけでもなく(ヒントはあったけど)、
Webにあるかと思えば誤った情報も混在しているし中途半端なのもあるしで逆に混乱を招く、
そういう種類のものだった。
把握して過去をふりかえって、
こりゃ、これまでの状況じゃ、わかるわけなかったわ!と、思ったものだ。
そうなったら、なにか結果を生んだわけでもないのに、なんだか地に足がついた感覚を得た。


状況を構造的に理解できないとき、ひとは自分を責めがちだ。
そして、自分を責めることがつらくなった場合には、他者のせいにしたり恨みがましくなったりする。
だけどそこで必要なのは、自分をいじめる努力でもなければ、他者を責めない覚悟でもなくて
状況を俯瞰するスタンスであることもとても多い。
自分ではベストを尽くそうとして工夫も実行もしているときに
(または、少なくとも悪意でサボろうなどとはしないつもりでいるときに)
結果がぜんぜん出せなかったり悪い状態にばかり陥るときには、
ほとんどの場合、原因は自分じゃなくて、構造的にほかのどこかに問題があるのだ、と私は思う。
見えてしまえば、解決策が考えられる。解決がムリでも、自信は取り戻せる。


それで思うのだけど、こういう場合に、落ち着いて状況を俯瞰するように育てられた人って少ない気がする。
少なくとも私はそういうふうには育ってきてないので、自力で獲得するのに苦労した。
問題解決のための状況把握 よりも 反省と努力と根性 が好まれる場というのは
わりとあるんじゃないかと思っている。
それだと、「おまえのせい」と言われた人がじっさい結果も出せない状況に追い込まれて、
状況を把握しようにも邪魔されて、自信喪失して去っていき、
ほんとうの問題点には誰も触れないままということになりそう。
こういう構図、多くない?


なんか繰り返してる気がするのでこのへんにしよう。
状況を俯瞰するのがひとりでは難しければ協力者を探してもいいかもしれない。
今むりでも、あとで状況が変わったあとまでしぶとく耐えて、
あとから「あれはなんだったのか」と俯瞰することで当時を意味づけなおす、ということは、できる。
いま身動きがとれなくて状況も把握できなくてつらいときも、ただ耐えるのではなくて、
チャンスが来たら把握しようと思って、自分のせいでない可能性を冷静に計算しながら待機することは
きっと、自分を守って、生かしていくのに役に立つことだと思う。