絶望を自覚し、そして捨てること

いくつかの、数十年来の呪縛から私はこの数年で少しずつ自分を解放しつつある。
はじまりは離婚を前提にした別居からだったと思うけれど、
もちろん呪縛は夫から受け取ったものだけであるはずがなくもっと根深いものだった。
開放感は少しずつ大きくなり、
ときどきは足元が崩れるのではと思うような価値観の変動があり、
その中でできるだけしぶとく実直に生きることを続けた意味が
このごろ少し実を結び始めていると感じている。

私は気づかないまま多くのことに絶望していた。
そのことに気がつき、絶望込みの一見平和な暮らしごと、捨てるということを
いくつかのジャンルでしてきた。
そのたびに私の生活は変化し、その収拾には多くの物質的精神的コストが必要だったけれど、
そのたびに私の足はしっかりと土を捉えるようになってきたと感じている。


私が絶望していたことがら、そしてそれを自覚し、捨てた(捨てつつある)ことを
忘れないように書いてみよう。
・一生自分で食べていくことはできない。誰かに守られていなければ生きていけない。
・雇い主(夫を含む)の言うことをどれだけ受け止められるかで給与や立場が決まる。
・庇護を受けるためには好かれなければならない。そのために魅力的でなければならない。
・自分の力で生きることを選べば、周囲は私への協力や庇護をすべて打ち切る。
・自分の力で判断することを選べば、周囲の矛盾を指摘する結果となり、孤立する。
・思うように行動する、ということは、周囲に迷惑をかけ、義理を捨てる行為である。
・私が納得しても何も起きないが、相手を納得させれば評価や金銭が受けられる。
こんなものか。
どれも、ひとの根源的な生きる力を失わせる、相当たちの悪い思い込みだ。
こうして字にして並べてみれば、どんなにひどいことか改めて戦慄を覚えるけれど、
私にとってこれらの絶望は10歳の子どもの頃からカジュアルなものだった。
まるで気に入りの人形のように、私はこれらの思い込みを、邪悪なものとは知らず
身を守る智恵であるかのように抱えたままでいた。
私は病弱でもなければ、成績が悪いわけでもなく、
絶望を抱える理由をもつほどの個体の特徴はなかったのに。


おそらく、私の近くにいた人々の軽い絶望を私は吸収し続けたのだろう。
そして、それを拒絶する判断材料になるような、
暖かく強い、自ら前進する力、私の成長を喜ぶ力に出会う機会がなかったのだろう。
それは珍しいことだろうか?
私にとっては、それが生活のすべてだったから比較対象がなく、
その成長の場がどんなにアブノーマルなのか、それともよくある程度なのかがわからない。
ただ思うことは、
私は自分の子どもには成長を続けてほしいから、
決して私の育ったような環境を作らない、ということだ。
また、私は自分の絶望を(自分がされたように)他者に向かって発散しないように
してきた自覚もある。
そこから判断するに、おそらくは、あってはならない方法で私は育てられてきたし、
そのことを理解してもいたのだろう。
以前はそのことを暴き、「元を取る」ことに執着した時期もあったが
得るものがごく少なかったこともあり、
また、成長した環境から距離を置けるようになったこともあり、
私は糾弾に飽きた、というか、よすことを選べるようになった。


そして、私は上記のような絶望を捨てはじめた。
私は自分の稼ぎで食べていくことを実際、続けられている。
無茶な話には反論でき、それが論理的ならば相手が引き下がることがある。
ひとの中には私の成長を喜ぶ種類のひともある。
私が納得することで行動の効率が上がり、周囲にもよい影響を与えられることがある。

そんな発見をしてリアルに掴んでいくごとに、わたしは少しずつ元気になっている。
気づいていなかったが、私はなにかに半分殺されかけていた
(物騒だから言い方を変えて、むりやり眠らされていたと言ってもいいか)、みたいだ。
それがようやく、世界が原色で見えはじめているみたいに見える。

きっとまだいくつか絶望を抱えているだろうと思う。
ぜんぜん論理的ではないが、なにか「まだだ」という確信がある。
はやく気づきたい。そして、直面し、吟味して、捨て去りたい。
その瞬間は気分が悪いけれど、
そのあとに来るリアルな、地に足のつく快感を私は何度か得てしまったから、
きっとそれに釣られて、やれる。
はやく、やってしまいたい。
きっと私はまた成長できるだろう。
たぶんそれは、他者に与えるということについての分野だという気がしている。


ちなみにそのブレイクスルーは、苦悩の中で見えてくるものとは限らない。
なにかわくわくするもの、そっちに行きたかったけど私には許されてなかったこと、
というようなものに踏み込んで、勝ち取っていくというような表現が近い。
そして、勝ち取ったときには、軽い怒り(これまでの呪縛はなんだったんだ!)と、
力強い嬉しさ(なにか、これでよいという方向性をわかったという感触)がある。
そして数日で、それらの感触のあとに、
自分のOSに不可逆の更新が起きたようだという、これも感触がしみじみと沸くのだ。
不思議で、たのしいものだ。
あと何回、こういう感触を私は得られるのだろうか。
過去からの回復のことばかり考えているのも自分の本来のテーマでないらしいので
(解決すべき問題が目の前にある時期は集中するべきだと思うけど、
 いまはそれではない)、
ほかの課題についても目を配りつつ、変わりながら生きていくことを楽しみたい。


さて、自分から少し目を離し、他人のことも考えてみる。
私の場合は極端だから、かえって気づきやすく、捨てやすいということが
あるような気がしてならない。
私のまわりの、過去の私ほど絶望していない人たちの中に
軽い絶望が見えることがある。
考えても無駄。それは私の仕事じゃない。とか。
いろいろ頭にくることってあるけど、いちいち目くじら立ててもね、とか。
人様とはお互い我慢しあって、やっていくものよね、とか。
人生って、まあこんなものでしょ、多くを望んでも、失うもののほうが多いかもよとか。
それって絶望じゃない?それ、捨てたら生きていきやすいかもよ?と、
思うことがときどきある。
だけど、事態が深刻すぎないものだから、放置しても死ぬまでやっていけちゃう場合もありそう。
でも捨てたほうがぜったい、よさげなのに。
と、思うことが、ほんと、ときどきある。
まあいいや。自分のことを進めていこう。